73)瀬戸内国際芸術祭に行きたいなあと思って読み始めた本。
(かれこれ半年くらい読んでいます…遅すぎ…
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直島は、瀬戸内海に浮かぶ人口3000人ほどの小さな島。
岡山県と四国香川県の間に位置するこの島は、今では現代アートがひしめく島として知られ、毎年多くの観光客が訪れている。
本書は、著者の秋元雄史さんがこの直島に関わった27年前に遡り、現在の直島の原型が生まれていく様子を記録したものである。
1 「直島」まで ー直島プロジェクトに関わるまでー
新聞の求人欄に「ベネッセという企業が同社の保有する国吉康雄美術館と、これからできる直島の美術館の両方で仕事をする学芸員を募集する」と掲載されており、申し込みをしたのが始まりである。
最終選考の際、社長に課された追試で「名品主義は卒業し、同時代の生きたアートをコレクションすべきである」と主張し、ベネッセの現代アートコレクションから直島をどのように企画するか述べた。
(イラスト1)
2 絶望と挑戦の日々 ー社内でアートを広めるためにー
初めの仕事は、直島コンテンポラリーアートミュージアム(現ベネッセハウスミュージアム)への展示のための作品集めであった。
もともと作品を生み出す立場であった著者にとって、芸術はお金とは異なった無形の価値をつくり出すものであり、資産としての芸術品はその次に来るものであるだと考えていた。
作品集めをする中でどうしてもお金を優先的に考える必要があり、当時、アート作品の社会的な意義は「芸術性」なのか、それとも「資産性」なのかと自問自答していた。
また作品を購入していく一方で、それをどのように活用していくか考えた。
社員のため、来館する人のためにアート作品を展示する文化は、先代社長の時代から行われており、社内の廊下にアート作品を置き、社員にアートを触れてもらおうとしていたが、皆忙しくそんな余裕はなさそうであった。
ではどうしたら良いだろうか。
今の社内展示は、資産として集めたコレクションを「とりあえず」展示しただけだが、「新・社内展示」ではそれをより存在感のある展示に変えつつ、日本のアーティストによる「異物感」のある作品を廊下に展示し、刺激を与えようとした。
(イラスト2)
3 暗闇の中を突っ走れ ー様々な展覧会ー
※ベネッセハウス(設計:安藤忠雄)
厚いコンクリートで外と隔絶しているように見えるが、様々なところに開口部があり、風景や自然と「直接出会う」感じが表現されている。
(しかし保存上の問題により、通常の美術館ではこのような構造は嫌われる。)
ベネッセハウスでのオープニングセレモニーを無事に終えたが、ホテルへの予約の電話はほとんどかかってこない。
世界的な建築家の安藤忠雄さん設計の建築物と、世界に知られた三宅一生さんの展覧会といっても、直島まではなかなか人は来ない。
そこで、同時代の日本の現代アートに着目して、展示企画を考えることになった。
柳幸典『WANDERING POSITION』展
蔡國強「蔡國強展」 (火薬の爆発による絵画制作やパフォーマンス)
『キッズアートランド』展
勅使河原宏『風とともに』展
「マイク アンド ダグ・スターン展」
「山田正亮”1965〜67”展ーモノクロームの絵画ー」
様々な企画展を行ってきたが、ある日展示替えをする必要がないという理由で、展覧会を開催することができなくなった…が、ホテルとしてのベネッセハウスだけでなく、美術館としても機能させたかったので、屋外に作品を置くことを決めた。
時折、安藤さんの建築は使いづらくないかと聞かれることがあったが、安藤建築に拮抗していく、あるいはあの強烈な個性を自らの表現に取り組んでいくぐらいの作品を必要としていた。
(イラスト3)
「Open Air’94 Out of Boundsー海景の中の現代美術展ー」
直島の随所に展示した展覧会によって、瀬戸内や直島の景観の素晴らしさにスポットが当たり、常設作品を増やすきっかけとなった。
また作家に直島のための作品を依頼する「コミッション・ワーク」や、作家に直島に足を運んでもらい、その場所の特徴を生かした作品をつくってもらう「サイトスペシフィック・ワーク」は直島のアートを作る重要な方法となる。
元々、展覧会という企画ありきで作品をかき集め展示する”展覧会主義”に疑問を持っていた。
そこで、展示される場所がまずあり、その場所から刺激を受け、その場所のために作品をつくってもらうことが、他にないものを作り出すと同時に、”展覧会主義”からの脱却になるのではないかと考えた。
CIMAN(国際美術館会議)が日本で初めて開催され、そのポストカンファレンスツアーが直島で開催された。
その会議でベネッセの美術活動は国際化が続いた。
「第46回ヴェネツィア・ビエンナーレ公式後援企画『トランスカルチャー』展」
これは、文化の多様性を前提にしたコミュニケーションを促進する世界を探っていこうとする展覧会。
ベネッセハウスの運営や作品制作で忙しくしていたが、一方で直島の運営の足固めが喫緊の課題となっていた。
ベネッセハウスは美術館なのかホテルなのか?
事業計画発表大会で当時考えた直島事業の目的は、
「時代の変化に色褪せない普遍的な価値を、瀬戸内海の景観や現代アートの価値と意味を深めることによって想定し伝えること」
そしてどちらが直島の事業かと悩んだ末、
宿泊サービスは「メッセージを伝えるためのメディア」として位置付け、そのメディアとしての宿泊サービスを「ホスピタリティ」と呼称する、とした。そのホスピタリティによって伝えられる直島文化村のコンテンツは”自然・建築・アート・歴史”という四つであり、アートは「伝えられる文化」として位置づける。
これで迷いなく直島プロジェクトを進めていったが、ここで”直島らしさ”とは何かという疑問を持つ。
それまでアーティストやベネッセ社内とのやり取りばかりしていたが、直島で理想のアートを実現するためには島の人たちにより理解され、受け入れてもらわなくてはならない と考え始めた。
(イラスト4)
4 現代アートは島を救えるか ー島民にアートを理解してもらうまでー
そんな当時、直島は住民の減少に伴う空き家の増加に悩んでいた。
人口の減少とともに島の活気が目に見えて無くなっていくのが分かる。
それではベネッセもなにかできないかということで、空き家を使ってアーティスト・イン・レジデンスの案が出てきた。
空き家をアーティストのスタジオ兼住居にしようという案だが、果たしてアーティストにどれだけのニーズがあるのか疑問であった。
著者は、アート作品として古民家をつくりかえたらどうかと考えた。これが後の「家プロジェクト」に発展する。
山本忠司さんの建築『角屋』✖️宮島達男さんのアート作品「シー・オブ・タイム」
この制作に関わった島の人は、5歳から95歳までの125名である。それぞれが自分の好みの時間調節をした。
島の人々にとってまったくの別世界であった現代アートが、宮島さんの作品制作に関わることで、身近な存在となり意味を持ち始め、角屋という昔から見てきた民家がアートになるプロセスを自分たちにも見える形で変化していった。
ベネッセの活動に対して批判的であった町長や島の人たちに、現代アートを理解してほしいという思いからこのような制作が行われた。
安藤忠雄さんの『南寺』✖︎ジェームズ・タレルさんの「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」
内藤礼さんの『きんざ』
では家プロジェクトが生み出したものとは一体なんだろうか。
家プロジェクトを始めたとき、地域再生の一つの手法というよりかは、島の窮状をどうにか打開したいという思いの方が強かった。
3人の作家は誰もが島の人と親密に関わり、お茶に呼ばれたり、やり取りしたり、制作していると庭にジュースなどを置いていってくれる人もいた。
このあたりからようやく直島がベネッセを受け入れてくれつつあると実感してきた。アートを介在したコミュニケーションは島を生き生きさせ、できればこの手法を島全体で試してみたいと思うようになった。
直島という、時の流れとともに縮小し、忘れ去られようとする地域の持つ価値を、現代アートを通じて再発見していくこの企画を、よりインパクトにあるかたちに広げたかった。
ローカルに足場を置きながら、現代アートのグローバルな部分をそこに結びつけていき、それをかたちにするのが大きなミッションだと思った。
『THE STANDARD』展
期間限定の作品を複数用意し、家屋や路地、理髪店、診療所など、様々な建物を舞台に13人のアーティストが直島の”日常”をテーマにして作品を制作した。
会期中はアートの仮想空間と直島の実際の日常とが交差するような日々となった。島外からは展覧会を見に毎日誰かが訪れる。作品が展示されている近くの家の近所に住む人の中には、毎日会場に通う人もいた。そして作品を通して島の魅力と出会う。
この展覧会から直島が「アートの島」として生まれ変わる前兆が見られるようになった。
(イラスト5)
5 そして「聖地」が誕生したー地中美術館ができるまでー
直島を現代アートでやっていこうとしていた矢先、モネの『睡蓮』の買い付けの話が上がり、どうにかして直島に睡蓮を置く方法を考えなくてはならなかった。
『睡蓮』はすでに十分評価された過去のものであり、想像の現場で扱うようなものではない。しかしやらなくてはならないと決まってしまった限り、近代美術の巨匠の作品を、どう現代アートと結びつけるか考えた。
そのためにはこれまでに考えたことのない方法でモネを位置づけ、つまりはモネの『睡蓮』に新しい意味を加えることが必要である。
そしてその出発点となったのが、「世界はどのようなところか」。これはデ・マリアとタレルが追求していた問いであり、モネが共通していたであろう問いである。
この「世界の成り立ち」という問いを追求する3人の作家の作品を通じて、この問いそのものを問うていく場所にしたい。
全体の空間作りに関しては3つの方針を挙げた。
①建築とアートによって”ひとつ”の美的体験の場所をつくること
②作品はパーマネントであること。永遠であること
③個々の作品が独立した空間をもち適度に離れていること
モネは晩年『睡蓮』について、どのような空間でどのように展示されるべきか自分で詳細に設計していた。彼は単に大きい絵を描いていたのではなく、建築家のようにそれが置かれるべき空間の設計もしていたのである。
モネは自分の作品の色彩の効果を正確に把握するために、白い壁の部屋を好んだ。そこでモネの絵の不在を表すという意味を掛けて、モネの愛した白によって『睡蓮』の代理をさせようとした。
そして「地中美術館」ができあがっていった。
この地中美術館での開会式で直島福武美術財団の理事長として福武さんが挨拶された。
ここはよく生きるとはどういうことかをじっくり考えるための空間であってほしい。今の時代はそういった時間と空間がなさ過ぎます。美術は内省するためのものです。そのためのスピリチュアルな空間が必要です。地中美術館は、ある種の聖地なのでしょう
EPILOGUE まだ見ぬものを求めて
以後、直島への来場者数は増え続けている。福武さんは直島で成功したプロジェクトを他の島にも広げていきたいと考えていた。本当に普遍的なものとは、何度でも繰り返し実現できるものだと。
福武さんのビジョンに同意しつつも、直島はここしかないという意味でオリジナリティを強めていくことで、永遠性に近づき、後世に残り続けると考えていた。
「独自性こそが普遍的なのです」
お互いに考えていることを理解していたがそれ以上の内容になることはなかった。
その1ヶ月後に財団を退職した。
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著者の秋元さんはこの後、金沢にある21世紀美術館の館長として働くこととなる。
直島が現代アートの島となるまでに様々な紆余曲折があり、がむしゃらに進んだ経緯がありながらも、しっかりと原点に戻るときは戻り、過去を振り返る。
そんな姿勢が随所に現れていて真剣に読んだ。
裏エピソードを知っていると現代アートがより近くに感じられる。
同時に、私の頭の中の知識が本の中で結びついてとても楽しかった。
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イラスト1:アンディ・ウォーホル「マリリン・モンロー」
イラスト2:ジャスパー・ジョーンズ「数字の9」
イラスト3:柳幸典「ヒノマル・イルミネーション」
イラスト4:草間彌生「南瓜」
イラスト5:イサム・ノグチ「octetra」
直島誕生――過疎化する島で目撃した「現代アートの挑戦」全記録
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